♪ここに取り上げたアルバムは折々「My Favorite」のコーナーで詳しく ご紹介しますのでどうぞお楽しみに・・・。
+++++ “私的”パウエルの作品紹介 +++++

47年、ルーストに録音されたパウエルの初リーダー作「バド・パウエルの芸術」、
'49〜'53までのブルーノートでの録音を纏めた「ジ・アメイジング・バド・パウエル
第1、2集」、'49年〜'51年にかけてヴァーヴに録音された「ジャズ・ジャイアント」
「ザ・ジニアス・オブ・バド・パウエル」などの作品には、最も光り輝いていた頃の
パウエルの演奏が余すところ無く記録されていて、その天才鬼才ぶりを知ること
ができます。

'53年からの数年間、パウエルが精神的に特に不安定だった「不調期」とされる時
期の演奏は酷評を受けることが多いのですが、'54年〜'55年のヴァーヴ録音作品
「ムーズ」は、苦しみの中で何かを見出そうとしているようなパウエルの感動的な
演奏を聴くことができるスピリチュアルな作品です。

その後RCAに残した'56年「ストリクトリー・パウエル」、'57年「スインギン・ウィズ・
バド」では、焦燥と苦悩に満ちた時期ながらもB.ジョージ・デュビビエ、Ds.アート・
テイラーとのトリオで生き生きプレイする姿が聴いて取れ、なんだかほっとします。

54〜'58年、再びブルーノートに録音された「アメイジング・バド・パウエル第3〜5
集」は、輝きを取り戻したと云われながらも、以前の演奏に比べるとかなり渋めで
パウエルの苦悩がじんわりと伝わって来る作品たち。「ザ・シーン・チェンジズ」と
いうタイトルの第5集は、「クレオパトラの夢」(シンプルなメロディー&コードプログ
レッションですが、弾きこなすのはかなり難しい曲です〜・・・)が含まれる名盤で
日本でも大ヒットしました。

'59年にパリに渡ってからのパウエルが残した作品では、絶頂期の40年代とはま
た違ったパウエルの演奏を聴くことができます。B.オスカー・ペティフォード、Ds.ケ
ニー・クラークとのトリオで出演した「エッセン・ジャズ・フェスティヴァル」でのライブ
音源、師であるセロニアス・モンクに捧げた「ポートレイト・オブ・セロニアス」などが
この頃の代表作です。
ストックホルムの名門ジャズ・クラブ「ゴールデン・サークル」
でのライブ音源「ゴールデン・サークルのバド・パウエル」の5枚の作品には、不安
定な精神状態のパウエルの姿が、また
デューク・エリントン監修の「バド・イン・パ
リ」では晩年最後と言える輝いた姿が記録されていて、彼のドキュメンタリーを感
じるほどに味わい深い時期だったのではないかと思います。『超絶技巧』と言われ
た頃も勿論素晴らしいのですが、私はこのパリ時代の人間くさいパウエルの演奏
が大好きです。

《余談ですが、パリ時代にドビュッシーに傾倒したパウエルが、ドビュッシーの作
品を弾き続けるという未発表音源が存在するそうです。私もクラシックを勉強して
いた頃やはりドビュッシーやラヴェルというフランス人作曲家の作品が好きでよく
演奏していたので、この未発表音源はとても興味深く、是非聴いてみたいです。》

'64年、ニューヨークに戻った直後にB.ジョン・オー、Ds.J.Cモーゼスとのトリオで録
音された「ザ・リターン・オブ・バド・パウエル」は公式の録音としては最後の作品
です。「鬼才」「超絶技巧」・・・・そういった言葉とは残念ながら縁遠くなってしまっ
パウエルですが、その代わりニューヨークに戻った喜びや、心身の病や貧困の悲
しみといった内面の部分がより強くプレイに表れていて、パウエルという人を敬愛
する私にとってはかけがえのない晩年の作品であります・・・。

パウエルの代表的なリーダー・アルバムに関して私の知っている範囲で書きまし
たが、この他にもチャーリー・パーカーやファッツ・ナバロ、J.J.ジョンソン、デクスタ
ー・ゴードンらとの共演による素晴らしい作品がたくさんあります。そして非公式で
の最後の録音「アップスン・ダウンズ」のような出所不明の謎音源も多くあるので、
興味のある方は探して聴いてみてくださいね。パウエルの残したこれらの音源は
私の元気の素ですが、私には一生かかってもこんなピアノは弾けるようにはなれ
ないんだろうなぁ〜、という落ち込みの原因になることも・・・。でも、当たり前か!
相手は神様だぞぉ〜(笑。
▼バド・パウエルは、超絶技巧の天才ピアニストとして脚光を浴びる華やかな部分の裏に、精神病、アルコールや麻薬
への依存症、そして貧困という不幸を背負っていました。ニューヨーク時代も、パリに移ってからも、ピアノに向かってい
る時だけは全てを忘れていられるというパウエルの悲しげな喜びが、その音源からは伝わってきます。
パウエルの演奏は、初リーダー・セッションの録音が行われた'47年から投獄される'51年頃までの「好調期」そして、社
会復帰後数年の「不調期」に分けて評されることがよくありますが、とりわけ「不調期」と言われる頃の作品に関しては
低い評価をされることが少なくないようです。確かに、指がまわっていないとか、なんだか生気が無いと感じるところもあ
るけれど、そういう部分も全て含めたパウエルのドキュメンタリーとして捉えてほしいと思います。誰が聴いても素晴らし
いと感じる絶好調期との表裏が見えたら、もっともっとパウエルの内面に近付けるような気がするのです・・・。
私が初めてバド・パウエルに出会ったのは中学二年生の時でし
た。当時、父親の影響で少しジャズに興味を持ち始めていた私
は、留守中の父の部屋にこっそりと忍び込んでは、雑多なレコ
ード・コレクションの中から数枚のレコードを勝手に持ち出して自
分の部屋で聴くのが楽しみでした(かなりのオタク少女でした)。

なんだかよく分からないけど、ジャズってカッコイイ!その程度の
感性しか無い私が一番最初に気に入ってしまったのが「バド・パ
ウエルの芸術」というレコードでした。何度も何度も聴いては、こ
のレコードから放出されて来る物凄い「気」に引きずり込まれ、時
には同化して、よく分からないくせに「イェ〜イ!」とか言っていま
した(笑。

数年後、ジャズの勉強を始めてコトが分かって来ると、その当時
の私はまさに「Swingしていた」状態だったということが判明しまし
た(笑。しかも相手はビ・バップの神様、パウエル!魅了されるの
も当然なわけです。

以後、パウエルは私にとっての「神様」となり、それからの私は
時代に逆行するようにビ・バップへと傾倒するジャズ人生を歩む
ことになりました。
+++ my respects to Bud +++
+++++ Earl "Bud" Powell ( 1924.9.27.-1966.7.31 ) +++++

1924年9月27日にニューヨークに生まれる。
生粋のニューヨークっ子だったパウエルは、祖父、父親、兄弟までが全てミュージシャンという音楽一家に育ちました。
6歳からクラシック・ピアノを学んだ後、ブロンクスの高校を中退。15歳の時に兄のバンドでピアノを弾き始めます。

こうしたパウエルの才能を早くから認めたのがセロニアス・モンクでした。彼は4歳年下のパウエルをとても可愛がり
ビ・バップが生まれた店として名高い「ミントンズ・プレイ・ハウス」のジャムセッション に彼を連れ出しました。
以後モンクに対する尊敬と友情の念はパウエルの生涯を通じて持ち続けられることになります。

パウエルの名が世に知られるようになったのは、Tp.クーティ・ウィリアムスのバンドに加わった'43年からで、初めての
レコーディング('44)もこの時代に行われています。'44年末に同バンドを退団した後、52丁目を中心に活動を開始。
この頃から超絶技巧の天才ピアニストとしての評判が高まりました。

'47年にB.カーリー・ラッセル、Ds.マックス・ローチとのトリオを結成。
ルーストにレコーディングしたパウエルにとっての初リーダー・セッションの作品(「バド・パウエルの芸術」)は、
モダン・ピアノの聖典とまでいわれる歴史的傑作となりました.。
又、ピアノ、ベース、ドラムスという現在は当たり前になったこのトリオ編成を定着させたのはほかならぬパウエルであり、
それぞれの楽器の役割を明確に振り分けることによって、ピアニストはより自由な演奏をすることが可能になりました。

ある夜、ジャズ・クラブで演奏しているパウエルの腕前を偵察に来た「ジャズ・ピアノの神様」アート・テイタムは、
十本の指を駆使するテイタムの奏法に対して、左手では主に和音を弾くというパウエルのスタイルを見て、周りの人間に
「どうやら彼は左手の使い方を知らないらしいね。」と声高に言いました。
テイタムの言葉は当然パウエルの耳にも入り、彼は今度はテイタムが得意としていた曲を左手一本で、それもテイタム
よりも速いテンポで弾いてみせたのです。さすがのテイタムもこれには驚き「パウエルは天才だ。」と言い残して、
そそくさと店を出て行きました・・・・という有名なエピソードで当時のパウエルの物凄さを知ることができます。

それほど素晴らしい才能を持ったパウエルでしたが、不幸なことに彼は若い頃から重度の精神病を患っていて、'45年に
3ヶ月、'47年から翌年にかけての約11ヶ月間を精神病院で過ごしました。
パウエルの精神病は、クーティ・ウィリアムス・バンド時代に警官から人種差別的な酷い暴行を頭部に受けたのが原因
という説や、先天的な情緒不安定からきているという説があります。'51年に麻薬常習の疑いで逮捕されましたが、
獄中で精神病が再発。再び精神病院に入れられて電気ショック療法を受けた後、'53年2月に社会復帰を果たしました。

'53〜'59年まで、パウエルの病状の変化により 好不調の波の多い不安定な活動を続けましたが、'59年に新天地を
求めて、ヨーロッパに渡ります。アルコールや麻薬におぼれ破滅してゆくバド・パウエルに一筋の希望を投げかけたのが、
パリという土地でした。アフリカ系のジャズ・ミュージシャンを温かく迎えてくれるパリに、当時多くのミュージシャンが希望を
託しました。アメリカで精神的にも肉体的にも最悪の状態にあったパウエルも、ヨーロッパの土地で自由な空気を吸い
想像力を取り戻しました。パリの名門「ブルーノート」でのパウエルの当時の映像が残っていますが、サックス奏者の
バルネ・ウィランに迎えられ、Tp.クラーク・テリーらと共に生き生きと演奏している姿を見ることができます。
(映画「ラウンド・ミッドナイト」は、パリ時代のパウエルをモデルに描かれています。)

'64年夏、パウエルは突然ニューヨークに戻り、古巣の「バードランド」に出演して大勢のファンに温かく迎えられました。
しかし、この後体調は悪化し、失踪や知人達への金銭の無心を繰り返すようになっていきました。そして、最後の録音
「ザ・リターン・オブ・バド・パウエル」を'64年10月22日に吹きこんだ後、翌'65年カーネギー・ホールにおける悲惨な
コンサートを最後に演奏生活に別れを告げ、
1966年7月31日、栄養失調と肺結核のため故郷のブルックリン病院で永眠。
病と貧困に喘ぎボロボロになりながらも、死ぬまで演奏を続けたパウエル。41年10ヶ月の短く壮絶な人生でした。